エンデバー号の思い出
最近、TwitterやFacebookをたまに書くと、どうも気分だけブログを書いた気になって、こちらが実際にお留守になっています。
なので、久し振りにブログにさわります。
最近の宇宙関係の出来事としては、「だいち」の運用停止がJAXAにとっては、大きいですが、私とっては、スペースシャトルの残り少ない運用が大きな話題です。
以前、このブログでも(数ヶ月前)書きましたが、私が宇宙の業界にいるのは、スペースシャトルの影響が大です。1981年の4月12日、スペースシャトルの初打上げ(STS-1)、当時中学生の岩本少年は、テレビの前に釘付けでした。着陸は2日後の真夜中だったと思いますが、眠い目をこすりながら、その滑空してくる勇姿に感動しました。
この時に、将来、日本でもスペースシャトルを打上げたい、と思ったのが、この業界に足を踏み入れる大きなキッカケになりました。
宇宙開発事業団(NASDA)に入ったのは、TBSの秋山さんがロシアから宇宙に行った直後の1991年です。最初の配属は、計画管理部宇宙実験プログラム室というところで、まさに、毛利衛宇宙飛行士や向井千秋宇宙飛行士が宇宙へ行き、実験をするためのプログラムを管理する部署でした。これらは、宇宙ステーション計画の一環として実施されていました。
記念すべきNASDA初、スペースシャトルでの毛利さんのフライトは、1992年9月12日。現在の「宇宙の日」ですが、私は、この日に向けて予算や計画の管理、そしてプレスや役所の対応などを行う、全体計画のマネージメント部隊の一員でした。
で、毛利さんのフライトは、NASDAとして初めての有人宇宙活動ですから、すべてのマスコミも注目していますし、それこそ打上げ直前は、ありとあらゆる質問が、新聞社、雑誌社、テレビ局、国会議員、役所等々からやってきて、その対応などで、滅茶苦茶忙しい日々を送っていました。
例えば、「スペースシャトルに窓は何個あるの?」、「毛利さんは、打上げ時に窓の外は見れるの?」、「毛利さんの眠るベットはどうなっているの?」、「ミッドデッキって何?」などなど。今でこそ、何人も日本人がスペースシャトルに乗って、写真も映像もあり、説明できますが、当時は、実際に乗った日本人はいないし、手元にある資料は、英語のシャトル解説本一冊。インターネットも普及しておらず、今、考えるとあの状況でよく、対応できたなと感心してしまいます。まあ、アメリカの駐在員事務所にもフル稼働してもらいましたが・・・。
また、シャトルのみならず、「事故ったら、どうするんだ。」とか、「保険は掛けてるの?」とか、「宇宙へは出張なの?」とか、「毛利さんは何時間働くの?」とか、初めてのことだったので、本当にいろいろ聞かれた気がします。加えて、新聞記事に書かれたことに、更に確認の質問が入ったりして・・。また、それとは別に、毛利さんの活動レポートや飛行計画をフォローもして、関係各所に連絡するなどの仕事も並行して対応してました。いやー、繰り返しになりますが、ミッション中の一週間、その前後と滅茶苦茶大変でした。
で、その時の機体が「エンデバー」。
フライト中の一週間は、上記の対応などもあって、毎日エンデバー号、そして毛利さんの活動を詳細に見続けました。 向井さん以降は、経験値も上がり、ここまでは大変でなかったので、私にとっては、兎に角、記憶に残るミッションであり、機体であります。
それが今から19年前。私も歳をとりましたが、エンデバー号も歳を取ったんですね。
エンデバー号の、地球への最後の滑空を見るのを楽しみにしています。
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